日記・コラム・つぶやき

今年の酉の市はどうなのか

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今年も暮れに近くなり、名物酉の市が始まった。

毎年、縁起物の熊手を買い求める人たちでにぎわう東京・浅草の鷲神社の酉の市の様子がテレビで中継されていた。今年の異変は、歴史始まって以来の「値札」が登場したと言うのである。何でも「値切るのは恥ずかしい」という客が増えたそうだからという理由で、こうなると売り口上と客との値切りの風物詩も消えそうだ。

江戸時代初めの1630年頃に、ここ鷲神社で酉の市が始まったのが全国に広まったとされている。あの熊手のたくさんの飾り、「福をかき込め」の願いを込めて七福神、大判小判などを乗せて作られるようになり、商品には値札はつけないで客との軽妙なやり取りで値段を決める。これが昔からの習わしだった。

売買が成立すると、売り子が客を取り囲み「手締め」の儀式を行い、「よーっ、商売繁盛!」と威勢のいい掛け声とともに手拍子が鳴る。これこそ江戸情緒たっぷりの昔ながらの伝統風景であり、客も買った満足感に浸るひと時と言える。

ところが、今年は不景気とともに複数の店で値札が登場したと言うのだ。

神社総代の横山さんによると、「お客さんに気軽に買ってもらう配慮からです」と話している。内情は、昨年の酉の市でアンケートを取ったところ、「売り子との会話が恥ずかしい。値切ることにためらいがある」と売り子、買い手の双方に一致する思惑が出てきたそうだ。特に若者の間にそんな声が多かったそうだ。そこで、神社と業者とが話し合い3世紀以上続いた伝統に「1万円までの商品に限って値札を出してよい」と申し合わせたそうだ。

値札を付けた商品は、境内の約100店のうちでも1割に満たないもので終わった。今年は、三の酉まで、11月5日の一の酉、17日の二の酉、三の酉は29日になる。火事が多くなければいいのだが。世代が変わり、日本の伝統行事もそれにつれて変わって行く。一抹の寂しさとともに、そこには合理性を求める世代の流れを感じ取れる酉の市となった。

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生き物みんな生きる権利がある

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 最近、熊が人里の現れて大騒ぎすることが多くなって来ている。

本来は山や森林の中でたまに出くわす熊ではあるが、気象の変化で餌が少なくなったり人間が山で食べ残した物を口にして味を覚えたりしたのか分からないが山から人里へと下りて来ている様子らしい。こうした現象に影響を与えている張本人は、みんな人間様であり環境破壊の元凶になっているのも人間社会であって、彼ら野生動物には何ら罪はないはずだ。

「生物の多様性」という言葉があるそうだが、多様な生物がいて人間の暮らしも成り立っているのであって、被害を受けるからと言って彼らが害のある動物ではないことを認識すべきだろう。自然界は、あらゆる生物の循環によってお互いが生命の保持をしているのだ。これを生態系のサービスとして捉えて、草花は枯れて微生物によって分解して土中の養分となり、その微生物や花の蜜を昆虫が餌さとしている。その昆虫は、鳥の餌となり、鳥は森の木々の中を住処としたり木の実を食べて運んで小動物の餌を提供している。そういう小動物を餌さとする大きな動物もいる。地球上のあらゆる場所で、こうした生態系の営みが行なわれているのだ。

ところで、そうした人間様もこうした多用な生物を保護しようとしているのだろうか?

動植物全体の約45000種類のうちの3分の1が絶滅危惧種とされているが、哺乳類の4分の1が絶滅の恐れありと各国政府や環境保護団体で作る国際自然保護連合(IUCN)がまとめてリストにしている。100年前までは、4年に1種だった絶滅種が1975年以降には年4万種に増えていると推定されている。それほど人間は、地球上の動植物の生存に大きな影響を与えるわがままな生活をしているとも言える。

そこで、こうした行為を止めさせる手立てとして、世界遺産登録やラムサール条約なるものがあるらしい。世界遺産は、ユネスコが未来へ引き継ぐ人類共通の宝物として、登録する自然や文化を選んで保護する制度がそれだ。自然遺産は、生物学的に見て貴重さがあることが条件になっている。日本では、知床・白神山地・屋久島などが登録されている。ラムサール条約は、水鳥の生息に欠かせない湿地を守ることを目的にした条約で、イランのラムサールで決められたことからこの名が付いたそうだ。釧路湿原など33箇所が登録されているとの事である。

この生物の多様性を破壊する行為は、いま問題になっている地球温暖化防止策と密接に関わっていることが言われ始めた。その例として、農業の焼畑農業もそうだ。農地をつくるために森林を焼き払って畑にすることは土地の養分を少なくすることになると言う。近年言われ始めたバイオエタノール燃料の開発も森や草原をなくして行為であり、温暖化防止とは相容れない開発となっている。こうしたことを考えると、人間はもっと謙虚に生きて、この地球上で動植物といかに共存するかを深く反省する必要がありそうだ。

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この異変をどう見る?

250pxgoldfishs  新聞を見ていたら、最近は「金魚すくい」に異変が起こっているそうだ。何でも客がせっかくすくった金魚を持ち帰らないと言うのだ。親子で金魚すくいに来ても、「可哀想だから逃がして上げようね。」と母親が子どもに言い聞かせる親が多いと言われる。

 金魚を扱っている露天商に言わせると、「子どもはみんな持って帰りたがっているのだけど、大人が嫌がる。ここ数年来の傾向だね。」との事だそうだ。かっては祭りの合間に金魚が足りなくなることもあったそうだ。そうした中で、露天商の本音は「実は、祭りの後には残った金魚は捨ててしまっていた。金魚のためにも家に持ち帰って可愛がってやって欲しい。」と打ち明けている。

 ところで、親側の本音はどうなのか?

 「死なれるのは困る。結局、世話で大変なのは親であり、家で死なれるのは困るんだ。」というところだと言う。こうした訳で、中には金魚すくいを止めたり、オモチャの金魚を使ったりする業者もいるそうだ。生き物を飼った経験のない若い親が増えて、金魚を飼うのさえ面倒くさいと思うのだろう。昔は幼稚園や学校の教室で金魚を飼っていた例も多かった。いまは先生も忙しくなったからなのか、減ってきている。昔を懐かしむ声では、「金魚を眺めて、嫌な気持ちになる人はいないはず。お金も大して掛からず、最高の癒しだと思うんだが。」との言葉もある。

 白梅短大の師岡教授(幼児教育)に言わせると、「飼っている生き物が死んで悲しむのも、子どもが命の重みを知る大切な体験です。」との指摘もある。確かに、最近の世相には簡単に人の命を奪ったり、自らの命を絶ってしまう若者も増えて来ている。それだけ命の重みが薄れて来ている証拠かも知れない。

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時の流れ

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 あの懐かしい上野の憩いの場、「聚楽台」が消える。

4月21日を以て終わりになるそうだ。

 戦後の高度経済成長期に上野駅は東北方面からの集団就職の玄関口だった。

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 上野へと出かけたのが、くやしいかなその翌日となった。

普段はここにこのレストランがあるなど想像だにしなかった。と言うのも私には縁のない玄関だったからで、あの上野公園か展覧会を見に行く時位にしか上野を訪れることもなかったからだ。新たなる新発見というところだろうか。

あの時代はみんな希望を持って東京へと出て来た。そして頑張った結果が今日の東京に見る大都会の姿だ。この聚楽台は彼らの台所であり、彼らに働くエネルギーを注入する場所でもあった訳だ。その役目を果たしたこの姿は、もう疲れ果てた姿として看板の字も色あせている。これからどうなるのだろうか?本当にありがとう「聚楽台」、お疲れ様。

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みんな苦しいんだ

 心の健康を病む人が増えていると言う。

それも30~40代が半分近くを占めるというのだから大変だ。この働き盛りの年代がうつ病などの心の病にかかる要因は、仕事上のストレスが一番の問題だろう。統計によると、健康状態や体調が34%、仕事が忙しいというのが28%で、後は家計が苦しいからとか諸々の要因である。それに今日のニュースであったが、プアーワーキングの若者の越年問題で電話相談が始まったそうだ。プアーワーキングなる言葉が、今世紀になって新しくお目見えしたが何とも悲しくなる現象だ。国の為政者は、こうした現象にどう感じているのだろう?

それもストレスを一人で抱え込んで、悩んだあげくに病に高じて場合によっては自殺にまで至る人も多くなっている。いま日本でこれほど人の心を分断しているのは、何が原因しているのだろうか?将来への不安に悩んでいる人たちがもっとも多い。先行きに希望が持てないのだ。その最たるものが国への不信感である。これまでの政治の一番関心ある問題に手をつけずに来たことがこれを増幅している。周りの人を信用できず、家族の連帯感も失われて来ている最近の世相は経済問題だけでは解決できない。

 会社の働き盛りでのこの問題は、グローバル社会の中での成果主義の結果である。余裕のない勤務状況の中で、厳しいノルマを科せられて正社員にはなれない若い社員も多く、家庭も持てず生活は安定しないままに人生が過ぎて行く。これでは不安が起こらない方がおかしいとも言える。何故グローバル化の中で、これまでの安定した日本から格差の大きな不安定な社会へと転換したかはバブルの処理に問題があったからと言われている。つまり、ソフトランディングで処理すべきものを一挙に荒療治で多くの大手企業を倒産へと追いやったのもこの処理で、山一証券、北拓銀、長銀等軒並み崩壊して行った。さらに総量規制というやり方で、銀行の不良債権処理をさらに困難なものにもした。こうした流れの中で、米国からのBIS規制なるものも追い打ちをかける結果となった。

 こうした一連のバブル崩壊立て直し処理は、いまだに正規雇用社員は増えず当時就職時期にあった若者に精神的ダメージを与えている。日本の対外債権は相当額あると言われているが、その殆どは米国の国債などである。これが自分で使えずに売れに売れず、自分たちは重税に喘いでいる矛盾はいかんともし難い。いま日本の国債発行残高は、国民一人あたり670万円にも及ぶと言われている。いわば国民一人が670万円近くの借金を背負っているのだ。預金は沢山あるけれど、手がつけられず借金をつくり続けているこの国はいったいどういう国なのだろう?

 

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どうするこの現実

 いま政治は年金問題で揺れているが、無年金者がなんと118万人もいるという。公的年金は最低25年間は加入期間として保険料を納入しないと受給資格が得られない。その期間を満たしていない人が推計で118万人もいると言うのだ。これをそのままにもしておけない。結局、生活保護の対象として税金が注ぎ込まれることになるだろう。いまや無責任な親たちも増えて、払えるにも拘わらず給食費、保育料さえ払わないと言うのに将来を考えると空恐ろしい感じさえしてくるではないか。

 社保庁によると、年齢別では60歳未満が45万人、60~64歳で31万人、65歳以上で42万人と言われている。これらの人たちは支払い上限の70歳までの納付を想定しても受給期間の25年を満たせない。さらに現時点で、納付期間が満たせず今後も保険料を払わなければ無年金者となる人が60歳以上で37万人にも上るそうだ。それやこれやで、最大155万人が無年金者となる可能性があると知って愕然とする政府関係者は数多くいるのではなかろうか。それにしても、これまでなんと無駄遣いしたものだろう。無駄遣いの総額1兆6,7千億があれば、何ら心配ない年金問題で終わっただろうに。

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国が信頼出来ないと言う情けなさ

 ねじれ国会で越年するという事態になった我が国で、国民の暮らしは一向に明るい展望が持てそうにない。土台骨がしっかりしないと、こうも世情が変わるのかと今更ながらひしひしと感じる。国民がしっかりしないからこうなんだと言われれば、そうかも知れないが悔しい思いはつのるばかりだ。政治家や役人が寄って集って責任転嫁しているからこうじゃないのかと言いたくなる。

 かってのイギリスがどうにもならなくなった時に、サッチャー首相が登場して女性ながら改革を断行して政治を立て直したが、やはり後遺症は大きくその後ブレア首相が修正しながら今日のゴードン・ブラウン首相へとつないだ。そこは今日の小泉、安倍、福田総理へとの路線がつながった形と似ていなくもない。しかし、日本とイギリスの決定的な相違点は大国アメリカとの関係である。つまり、相手国のアメリカが日本を対等に考えているか、属国と考えるかである。イギリスはアメリカにとっては先祖国であり、いまでこそ国力の違いはあるものの米国は自分たちの母国認識位の感覚を持っていると見たほうがよい。日本はどうかと言えば、先の大戦で敗北した相手国であり、戦後の復興を手助けした国でいつ植民地とされてもおかしくない立場の国である。いまの自民党が小泉総理の親米路線を引き継ぎ米国の意のままにならざるを得ないのはそこにある。その証がテロ特捜法であり、自民党はこれを何が何でも通そうとしているのだろう。

 こうした事を国民にはっきりと言わないが、民意の方向性を無視してまでこだわる理由はそこにあるのだ。これからの国民の選択肢がどう出るか分からないが、これだけ国民生活が疲弊してくると政権交代は実現する可能性が出てくる。米国でもブッシュ政権が始めたイラク戦争が泥沼化して国民に不満が高じると政権交代となる可能性が大であり、その兆しは現れてきている。それで変わって、日本が好転するかと言えば大変難しい問題と言えるだろう。どこの国でも自国の国益を優先して外交判断をしている。たとえ同盟国と言えども、そこはシビアに考えていないと大きな誤算を生む結果を生じるのは明白だ。

 お互いの信頼感があれば、などと日本はこれまでもとかくお人好しな外交で随分と泣きを見てきた。たしかに戦後の日本の復興に米国は大変なエネルギーを注いでくれたかも知れない。しかし、それと引き替えに日本人の精神構造を相当歪んだものにしたようにも思える。その現象が今日の国民と国の基幹との乖離問題である。彼らの感覚では大変古い、封建的なものに思える信、義、仁などの言葉が如何に大切であったかよく分かる。それが戦後は陳腐化して来て国の中枢や学校の教育の場など将来の国造りの重要な場面で諸々の問題を生み、支障を来し始めている。文科省が修身を取り入れようとしているのもその表われでしかない。これは国が主張することではなかろうにと思う。

 国の舵取りは大変な作業であると思う。それは国際的に大きく広がって来ただけに難しく、日本として主体性も要求される。相手国に飲み込まれるか、相手国を説得して少しでも自国の国益を守れるかが政治の要諦として問われるのだ。国民にとっても目が離せない今後の二大政党の動きであり、これまでのような安易にマスメディアの報道だけで判断していてはしっぺ返しは国民に来ることを肝に銘じておかなければならない。

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おかしいぞ、何じゃこりゃ

180pxaumyokohamasibu 今日の新聞によると、オウム真理教事件の被害者に対する見舞金として国がお金を払うとあった。それはそれとして被害者を見舞うという趣旨は賛成できる。しかし、かねてから思っていたことだがオウム事件は明らかにテロであったにも拘わらず、わが国の対応は極めて甘く、遅く常識外とも思える対応であった。ここが心情的に納得できない処理にも思えるのである。当時は、相手が宗教団体だったからだとか言い訳に終始する内容に見受けられたが、宗教団体の有無は関係ないはずで、宗教団体とは言え悪は悪として取締りの対象にして即応すべきであったはずだ。

 見舞金の総額は25億円にもなるそうだ。国のいい加減な対応によってこういう無駄な税金がまた消えて行くのは許せないことだと思う。すべては悪に寛容すぎて被害者が二重に被害を受けている典型とも言える。見舞金を支払う理由として次のようなものが上げられている。①民主主義に対する挑戦であり国家転覆を狙った犯罪である。②被害者は民事提訴で自助努力を尽くした。③国が所持していた教団に対する債権を放棄する特例法が成立している。とある。国民としてはまったく腑に落ちない処理である。

 聞くところによると、犯罪や不審死などの司法解剖が行われるのは事件性の死者数のうちたった9%足らずだそうだ。つまり、おかしいと思われる死者であっても事件性は無しとして大半が処理されているのだ。犯罪者を堂々と見逃している行為にもつながっている。こんな事でいいのだろうか?以前から加害者には甘くて被害者につらい国の対応、国民の意識が問題になっているにも拘わらず、一向に改善されない。こんなことでテロに対する脅威をと唱えるよりも、もっと身近な問題でそれなりに毅然とキチンとした対応をすべきだ。

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これもひとつの方法かも知れない

250pxinagi_satoyama_06b5841s  経済的にも恵まれて、先進国入りした日本だがどうも気になることがある。それは最近とみに景観が悪くなったということだ。自然は自然のままに、あるがままに見せるのが一番である。それが到る所に看板だらけで見苦しいことこの上ない。

 一歩町を離れて見るとそれがよくわかる。それに住宅の統一の取れてないこともおびただしい。歴史ある観光地などは経済的視点から、ある程度の規制をかけてそこの町並みを保存している。これは大いに歓迎すべきことであるが、全国的にその地域にあった規制を行い気持ちよく過ごせるようにしたらどうだろうか?

 こんな言葉があるそうだ「樹木葬」と言って、墓石の代わりに植樹を行い里山作りを行なう。例えば、一番人気のある木は桜の木だそうだが、その木の下に骨を埋めて「桜葬」としてお墓の代わりとする。自然に帰りたいと言う本能的なニーズで人気が高まっているとのことである。たしかに郊外が墓石のお墓だらけになるより、自然の樹木が増えてきれいな里山が育って行くのは大変歓迎すべきことと言える。

 それと都会地を中心として、電柱も何とかして欲しい。これは公共事業としてどんどんやって欲しいことだ。道路を邪魔している電柱の何と多いことには周辺の景色を台無しにしているもののひとつだ。ただでさえ狭い道路に道をふさぐ障害物としてじつに気になる。戦後の日本は、豊かになったとは言えそれと同時に美的感覚を消失したのではなかろうか?自分たちの日常も気持ちよく過ごせ、外国から来る観光客には好感を持たれる町や田舎を含めた日本の景観を見直し、規制すべきは規制してでもこの問題に取り組んでもらいたいと思う。

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これでいいのか?

 国は少子化対策にやっきになっている。

しかし、日本の国土からすると人口は少なすぎる訳ではなく、むしろ多い位だ。問題は国民の大半が長生きにより高齢化が進んで人口の新陳代謝が進まないことだろう。そういう中にあって、新聞にこんな記事があった。最近は妊婦健診を受けずに出産間際にいきなり病院に駆け込む妊婦が増えていると言うのだ。とんでもない事態と言える。

原因は妊婦健診に自己負担でお金がかかるため、それを受けないのだとの事である。また飛び込み出産で病院で出産しても出産費用を払わないで帰る人も多く出ていると言う。経済的に本当に困っているのなら、手段はいろいろあるだろうに周りにも相談しないで勝手な自己判断で行動するからなのだろう。人間関係の希薄さから、世の中の動きがだんだんおかしくなってきているのだ。公費の負担もままない位に財政が逼迫してきている自治体も増えているが、住民サービスの視点をどこに置くかもっと精査すべきだろう。一方で無駄遣いしながら、肝心の事にはお金を使わないと言うのでは公的機関の存在する意味がない。

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