文化・芸術

興味深い大奥の記録が明らかに

200pxkazunomiya 皇女・和宮

 第14代将軍徳川家茂の正室和宮の日常生活、その前の第13代将軍家定の正室篤姫にまつわる大奥についての記録が津山藩(岡山県津山市)にあったことが分かった。

 そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじきこと」と厳しい法度が残されているとされている。東京大学史料編纂所の山本教授が確認したところによると、記録は津山藩江戸屋敷の奥女中が書いた「七宝御右筆間御日記」では第11代将軍家斉の子、斉民を藩主に迎えた1831年~69年頃までの記録が計1万ページを超えるほどあるそうだ。

 その中にあるいくつかの興味ある内容を挙げてみると、「宮様はナスが好きなので献上した」(1868年)という記録があるが、これまで知られていなかった和宮の個人的嗜好も記述されているとのことだ。また、将軍家の江戸城退去後の69年には「天璋院こと篤姫さまの自画の掛け物ができた」との記述もあり、73年に撮影された写真をもとにした肖像画とは別の肖像画があった可能性をうかがわせている。さらに篤姫付の女中について、これまでの文献では知られていなかった「八重浦」という名前も明らかになったり他の名前も確認されている。ほかにNHKの大河ドラマに出た御年寄・瀧山が1866年12月に「願いの通り、お暇を仰せ付けられた」という事実も分かったことや幕府の衰退とともに、年を追い女中が辞めていく様子もうかがえた。

 身分制度社会には貴人は自ら手紙を書くことはなかったが、山本教授は「篤姫付の女中の名前が分かったことで、手紙の差出人にある女中の名前から篤姫が出した手紙が特定できる大奥研究の貴重な史料になる」として、この日記の価値を高く評価している。

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 もう一つの話題として、第14代将軍家茂の正室であった和宮が愛した内裏雛などの人形や雛道具約100点が国立歴史民俗博物館で展示されている。場所は千葉県佐倉市であるが、「和宮ゆかりの雛かざり」展で開催中の幕府と朝廷の関係の幕末動乱期に、関係修復を図っての公武合体論により結婚の決まった和宮コレクションの公開である。

 3月3日の「ひな祭り」の節句が広まったのは、江戸時代に入ってからだと言われている。当初は男女一対の内裏雛を飾るだけだったものが次第に華やかなものに変わったと言われている。文献には、15対の雛人形を飾っていたという記録があるほど和宮は雛人形を愛好していたそうだ。展示は3月8日まで行われている。

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板碑の起源をどこに求めるか

250pxitabikamakurazaimokuza 板碑

 

歴史好きには意味がある板碑なるもの、主として中世に流行した石造の供養塔で板状の石に仏像や梵字、願文などを刻んで寺院の境内などに建立した塔婆の一種と言われる。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代にピークを迎えたと言われている。その特徴は、山形になった頂部の下に2条の切れ込みがあるものが典型的な板碑だとされる。その起源は、平安時代末期に出現したと見られる五輪塔の上部の形が簡略化して板碑の頂部となり、一番下の地輪が長くなって板碑の塔身部になったと考えられていた。

 先月、埼玉県の嵐山町で「板碑が語る中世」というシンポジウムが行われ、そこで新説が発表された。現在、一般に同一視されている「塔婆」と「卒都婆」は、天台宗の僧侶の澄憲は別物と考えていたとし、それは五輪塔や宝塔などの塔型と板碑のような非塔型の区別だったと解釈されることから、板碑の源流を辿るには五輪塔を切り離し非塔型の系譜をさかのぼるべきと北本市の教育委員主幹の磯野氏が指摘した。

最古の板碑をさかのぼると、木製の板碑が石川県珠洲市で出土して「餓鬼草紙」(12~13世紀)に描かれた木製板碑の実在がはじめて裏付けられた。このことが五輪塔の出現以前に板碑があった可能性を生んだ。磯野主幹が注目したのは、中国・唐の時代の幡と言われるもの、「極楽往生するための功徳として葬送に必要な仏具である。目的・形状・描かれたモチーフも板碑と酷似している。年代はかけ離れているが検討には値する」としている。

 日本は一般に「木の文化」だと言われているが、「石の文化」の時代もあった。縄文時代にはストーン・サークルや石棒などが造られたが弥生時代には下火になった。古墳時代には巨大な石室が築造されて復活したものの、奈良時代以降になると寺院の礎石に用いられる程度に落ち込んだ。中世になると、板碑をはじめ五輪塔や宝匡印塔など仏教世界の中で石造文化が花開いた。埼玉県の初期の板碑には、近在の古墳の石棺に使用されていた石材(青石)を再利用した事例があると報告された。青石を用いた古墳の分布と武蔵武士が建立した板碑の分布がほぼ一致していると発表された。

 中世はまさに石が再発見された時代で、石棺が板碑に転用されたのはじつに象徴的ともされ、磯野氏は「石の永続性が、イエ意識の高まりを見せていた武士団の象徴となったのではないか」と推測している。一方、板碑研究の第一人者千々石国学院教授は「末法思想などを背景とした密教系の浄土信仰の広がりが、様々な仏塔を生む要因となった。そういう中で武蔵の緑泥片岩のような美しい石の発見が全国各地であったのだ」と語っている。

 板碑の出現には、武士の台頭という政治的な背景と思想的な背景が複雑に絡み合って中世の時代を形作ってきたと思われる。今後の研究が中世を読み解く鍵になりそうだ。

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男色が潜む名作

 早稲田大学教授丹尾安典氏の新著「男色の景色」(新潮社)が取り上げられて、日本の男色文化についての論評が読売新聞に掲載されていたので取り上げて見た。

 氏の専門は、近代美術史だそうだが、男色については20年前に学内で「本朝男色美術考」を発表したのが始まりだそうだ。

 男色研究の先駆者は、戦時中に病没し、その後仕事の全容が公刊された岩田準一氏で丹尾氏も取り上げている。歴史学では近年、史実として男色を扱っているそうで、院政期の政治では後白河院のそれを抜きには語れない。戦国時代から江戸時代初期の武将にとってはありがちなことだった。松尾剛次著の「破戒と男色の仏教史」(平凡新書)は中世の戒律復興運動が力を持った背景として、男色が一般的だった仏教界の実情に注目している書である。こうした現象は、貴族や武士・僧侶など各階層が生んだ芸術・文化へ影響を与えたと言われている。

 丹尾さんの本は、史料を引用して縦横に論じている。例えば、梅や菊にまつわるイメージとして、いち早く春に咲く梅は「花の兄」、秋に咲き残る菊は「花の弟」と呼ばれ、しばしば男色関係の兄弟を意味したと言われる。取り上げられた作品の一つに尾形光琳がパトロンを描いた「中村内蔵助像」がある。この絵は、特別な感情をにじませる入念な肖像だが、画中の扇には梅が描かれている。無論、梅や菊がすべて男色を暗示する訳ではないが、そうした文脈があったことは無視できない。

 また、出光美術館所蔵の奥村政信「中村座歌舞伎芝居図屏風」には舞台の少年を見つめる僧侶が描かれ、その熱心さを連れの若衆が気にしている様子が描かれている。「絵の中の小さなドラマも、男色を念頭から消してしまっては目に映じてくることはない」と丹尾さんは話している。そのほか近代文学の中の井伏鱒二の「山椒魚」、川端康成の「伊豆の踊り子」などの名作にも、かすかに男色の気配が漂っているとしている。

 人によって好悪は分かれるだろうが、「性のテーマは誰もが抱えている問題であり、そういう人間的なところから蓮の花のように芸術的なものが花開くことがある」と丹尾教授は述べておられる。

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いま江戸東京博物館では

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大名駕籠

  昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」は大変な人気で視聴率は好調のうちに終了した。

いま江戸東京博物館では、それを記念する意味での特別展が開催されている。1月25日までが「徳川将軍家ゆかりの女性」という企画展、もう一つが特別展の「珠玉の輿」で、2月1日までの開催になる。その中の目玉は、なんと言っても米スミソニアン協会所蔵の篤姫所用の女乗物と同博物館の本寿院所用の展示だ。篤姫と本寿院の二人の女性、NHK大河ドラマで一躍有名になった歴史上の人物だが、二人は13代将軍徳川家定の正室と実母の関係になり義理の母娘だ。

 江戸の町を行列が進む時、その中心になるのは大名が乗る駕籠や女乗物、輿などの乗物だ。こうした乗物が自らの権威を誇示する道具にもなっている。

 江戸東京博物館の学芸員斉藤慎一氏によると、篤姫と本寿院の乗る女乗物には随所に類似点があることでは、同じ時代に同じ工房で作られたと理解されるが比較して行くと微妙な仕様差が見られると解説している。金具や内装画に差異があり、篤姫乗物の方がグレードが高いそうだ。篤姫のものには徳川家の葵の紋や近衛家の牡丹紋が蒔絵にされているが、本寿院のそれには葵紋がないと言われている。こうした差は偶然ではなく、何らかの差異を表していると考えるべきだと言う。つまり将軍の正室と側室の差ではなかろうかと推察される。酷似しながらもこうした微妙な差がある女乗物が同時代にあったのは、江戸時代という背景にその社会的な背景が隠されていたのではと推測されている。

 江戸幕府は、徳川家康に始まったが家康と言えども乗物を自由に選べた訳ではなかった。乗物の利用が認められたのは、豊臣政権下に五大老の1人に選ばれたことで法令で利用が認められた。当時は騎馬が基本であった時代で、乗物の利用は特別なものだった。また、征夷大将軍になった時には朝廷から牛車の利用が認可された。こうした利用の認可は、政治的な地位に関係していて、その根拠となった法令が「武家諸法度」だったと言われている。実際には地位、立場によってもっと細部にわたって仕様に差が設けられていたとも言われている。

 女性の場合にも江戸時代の書籍にはランクが記載されているそうだ。<総黒漆塗に金蒔絵のあるものが最上のランク>とされ、将軍家や大国の大名家の夫人が使用したと記されているそうだ。小国の大名家や高禄の旗本家の場合は、蒔絵ではなくビロード貼りでこれまた所有者の地位が表現されていた。さらに上位に位置する女乗物もあることが分かり、その外装は黒塗りではなく、金銀などの粉が混ぜられた蒔絵の梨子地のものとされている。類例のものは現在では4挺しか知られていないそうだ。

 江戸時代には乗物は自由に選べるものではなく、極めて厳格な規定の下で実に細やかな差を意識して作られた社会的な背景を持ち、それは江戸時代という身分制度社会が生み出した産物でもあったと言われている。

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生誕100年に見る人気作家の点と線

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太宰治(左)と北九州市立松本清張記念館

 過日、読売新聞に掲載されていた「太宰・清張をつなぐ点と線」という記事が目につき、興味を感じて書いてみた。

昭和も遠くなりの時代に入って来たが、その時代を代表する人気作家として太宰治と松本清張がいる。生まれは二人とも同年代だが、太宰の方はあの有名な入水心中事件で清張より44年前に亡くなっている。その二人が今年そろって生誕100周年を迎えるのだ。

二人の生い立ちも学歴も対照的で、太宰は大地主の家に生まれて東京帝国大学を除籍になり、清張は高等小学校を卒業してすぐ働き始めた。太宰の方は、代表作「人間失格」に記してあるように<自分には人間の生活というものが、見当つかないのです>と述べている。それに対して、清張は就職し始めには<生活のために、かねて夢と抱いていた文学を捨てた>と述べていた。しかし、後に朝日新聞西部本社の広告部に勤務してから、<小説も文学も私には一切無縁だった。会社で太宰治を語る者がいたが、私はこの情死で世間的に有名になった作家の作品を何一つ読んでいなかった。後になって太宰の小説で感心したのは「ヴィヨンの妻」と「津軽」であった>と書いているそうだ。

松本清張がデビューしたのは、太宰が死んでから2年後で懸賞に入選した「西郷札」という小説である。以後は国民作家としての道を歩み、「砂の器」「点と線」など全38点累計4337万部で絶大な人気を博した。それと同じく太宰も「人間失格」が新潮文庫で615万部、「斜陽」は356万部など全17点で累計2041万部の売れ行きだそうである。(昨年11月末現在)

1月11日から北九州市にある松本清張記念館では、「1909年生まれの作家たちー大岡昇平・中島敦・太宰治・埴谷雄高・松本清張」展が開催されている。人気作家の大集合展だけに多くの人の入場が期待されているそうだ。

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日本人再生・その2

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 10日から銀座の松屋デパートで「白州次郎と白州正子展」が開かれる。白州次郎と言えば、戦後の日本で敗戦処理に尽力した気骨ある日本人として、当時の占領軍(GHQ)と折衝してアメリカに物申す日本人として有名な人物であった。吉田茂首相の懐刀として活躍してもいた。

 この写真は当時の吉田首相と一緒に折衝のために米国に向かう飛行機に乗っている白州次郎の写真である。敗戦の日本は、GHQによりことごとく日本の言い分が通らない世界であった。多くの文化の違いを押し付けられていた。そこに白州次郎は、GHQの高官宛に「今に見ていろ」という内容の手紙を送っている。「今に見ていろ」と言ふ気持ち抑え切れずひそかに涙すと手記を書いて悪戦苦闘したと言われている。その手記も展示されているそうだ。

 彼は綿貿易商の裕福な家庭に育ち、英国留学もしていて身長180センチ以上あり日本で最初にジーンズをはいた人物として洗練されたファッションセンスも持ち合わせていた。

 また伴侶正子は、樺山伯爵家の二女で今で言うセレブ夫婦であり庶民の生活とは無縁な存在ではあった。次郎が同じセレブでも今のセレブと違う点は、流行にとらわれず自分の好みを優先させる姿勢を堅持して、トランク、腕時計、スーツは西欧の一流品を大切に維持しながら質素に暮らしたことである。

 一方の白州正子も文学と古美術をこよなく愛して、美術評論家の青山二郎や評論家の小林秀雄といった美を追求する目利きとの交流を通して審美眼を磨いた。幼少時から能を学び、それに関する随筆や評論、紀行なども晩年まで執筆した。これらの成果が展示されているが、その品々は正子の言う「美しい骨董を見ること使うことは、自分を豊かにする」ということに通じるのがよく分かる。

 個性豊かなこの夫婦は、晩年を東京町田市の「旧白州邸武相荘」で暮らし、ここは今でも時代を駆け抜けた個性の強いこの二人に思いを馳せるファンが訪れている。

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謎の浮世絵師・写楽の作品を発見

210pxtoshusai_sharaku_otani_oniji2c  東洲斎写楽と言えば、江戸時代切っての浮世絵師として知られた人物ではあるが、その作品の所在については謎も多い。

 今日の新聞によると、彼の作品の一部である「肉筆扇面画」が何とギリシャのコルフ島にあるアジア美術館で所蔵されているのが分かったそうだ。写楽の肉筆作品は、極めて少ないところからも謎の多い絵師と言われていた。また、確認されている作品は、ほとんどが役者絵でもある。

 今度発見された直筆画は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を題材にした役者絵で、浮世絵版画の世界から姿を消した直後の作品と見られている。

 扇面画には竹を素材とした中国製の「竹紙」と言われるものを使ったと見られ、署名と花押があるそうだ。真筆と鑑定したのは、小林忠・学習院大教授らの国際学術調査団で、その根拠は①役者の表情の描き方、繊細な彩色がオリジナルな表現を備えている。②通常、浮世絵には描かれない場面を取り上げていて、非常にユニークである。等から判断されたとのことである。

 ところで、何故この作品がギリシャのこの小さな島の美術館にあったのか?

 じつはこのアジア美術館は、19世紀末から20世紀初頭にかけてギリシャの外交官として活躍していたグレゴリオス・マノスという人物がパリやウィーンで買い集めた日本などからの美術・工芸品コレクションを所蔵・展示している美術館でこの作品もマノスの収集品と言われている。近年になって、ここのコレクションが日・英の研究者に知られるようになって7月の下旬に調査団が訪れた。

 これまでもかなり世界に散逸された我が国の文化芸術作品が、こうした形で発見され、改めてその価値が認識されるのは大変結構なことではなかろうか。

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伝統芸能が回復、躍進

350pxkabuki_performancej_m_w  

日本の伝統芸能を改めて世界が見直しつつある。和の文化の魅力に西欧を始めアジア諸国も目を向け、熱い視線が注がれていると言う。

                      200pxokuni_with_cross_dressed_as__2   その中の代表があの歌舞伎だそうだ。もともとは出雲阿国と言う女性芸能者が安土桃山時代に始めた踊りが、その発祥とされ現在は無形文化財として伝統芸能としての地位を築くに至った。

今年は先頃、中国国家主席の胡錦濤主席が来日して、日本の和を中心にした文化に触れ、好印象を得て帰国されたようだがこの歌舞伎の中国公演も行われている。それも中国の伝統芸能である昆劇という京劇に似た世界無形遺産に認定された劇との合同公演だと言うのだ。.

これには多くの観客が詰めかけて、大変な人気ぶりとのことで日本からは女形の歌舞伎界代表として板東玉三郎が参加している。

台詞はすべて中国語でこなし、それだけに人気も過熱している。

歌舞伎の海外公演は、1928年に旧ソ連を皮切りにすでに60回を超えている。これまでは海外からの招きで、公演を行ってきたが今回は国内興行を手がける松竹の主催で行われているとのことだ。

これとは別に、中村勘三郎がドイツ、ルーマニアと公演を行うとのことである。

これらが成功すれば、「日本文化の代表としてだけではなく、世界の文化としての発信にしていく」と松竹の関係者は意気込んでいるそうだ。

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