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板碑の起源をどこに求めるか

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歴史好きには意味がある板碑なるもの、主として中世に流行した石造の供養塔で板状の石に仏像や梵字、願文などを刻んで寺院の境内などに建立した塔婆の一種と言われる。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代にピークを迎えたと言われている。その特徴は、山形になった頂部の下に2条の切れ込みがあるものが典型的な板碑だとされる。その起源は、平安時代末期に出現したと見られる五輪塔の上部の形が簡略化して板碑の頂部となり、一番下の地輪が長くなって板碑の塔身部になったと考えられていた。

 先月、埼玉県の嵐山町で「板碑が語る中世」というシンポジウムが行われ、そこで新説が発表された。現在、一般に同一視されている「塔婆」と「卒都婆」は、天台宗の僧侶の澄憲は別物と考えていたとし、それは五輪塔や宝塔などの塔型と板碑のような非塔型の区別だったと解釈されることから、板碑の源流を辿るには五輪塔を切り離し非塔型の系譜をさかのぼるべきと北本市の教育委員主幹の磯野氏が指摘した。

最古の板碑をさかのぼると、木製の板碑が石川県珠洲市で出土して「餓鬼草紙」(12~13世紀)に描かれた木製板碑の実在がはじめて裏付けられた。このことが五輪塔の出現以前に板碑があった可能性を生んだ。磯野主幹が注目したのは、中国・唐の時代の幡と言われるもの、「極楽往生するための功徳として葬送に必要な仏具である。目的・形状・描かれたモチーフも板碑と酷似している。年代はかけ離れているが検討には値する」としている。

 日本は一般に「木の文化」だと言われているが、「石の文化」の時代もあった。縄文時代にはストーン・サークルや石棒などが造られたが弥生時代には下火になった。古墳時代には巨大な石室が築造されて復活したものの、奈良時代以降になると寺院の礎石に用いられる程度に落ち込んだ。中世になると、板碑をはじめ五輪塔や宝匡印塔など仏教世界の中で石造文化が花開いた。埼玉県の初期の板碑には、近在の古墳の石棺に使用されていた石材(青石)を再利用した事例があると報告された。青石を用いた古墳の分布と武蔵武士が建立した板碑の分布がほぼ一致していると発表された。

 中世はまさに石が再発見された時代で、石棺が板碑に転用されたのはじつに象徴的ともされ、磯野氏は「石の永続性が、イエ意識の高まりを見せていた武士団の象徴となったのではないか」と推測している。一方、板碑研究の第一人者千々石国学院教授は「末法思想などを背景とした密教系の浄土信仰の広がりが、様々な仏塔を生む要因となった。そういう中で武蔵の緑泥片岩のような美しい石の発見が全国各地であったのだ」と語っている。

 板碑の出現には、武士の台頭という政治的な背景と思想的な背景が複雑に絡み合って中世の時代を形作ってきたと思われる。今後の研究が中世を読み解く鍵になりそうだ。

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