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2009年2月

何とも由々しきニュース

Thumbnail 介護用ベッド

 介護ベッドで事故死する人たちがいると言う。事故とは何ぞやと大変疑問に感じた。

介護ベッドの狭い手すりの隙間に首や頭を挟まれて死亡する事故だと言う。2007年12月から半年間にそうした事故と見られる死亡事故が8件も発生しているそうだ。

 介護ベッドとは、普通のベッドとは違い、介護しやすいように作られベッドで電動や手動で、高さを自由に調整したり、上半身や足だけを上げやすいように角度を変えたりする機能があるもので、介護保険制度の下、症状に応じてレンタル利用するのが保険給付の対象とされている。

 経済産業省認可のJIS規格製品であったのだが、こうした事故が多発しているために変更するそうだ。ベッドに設置されている手すりは、転落防止の柵としての役割を果たすのだが、この手すりに身体を預ける習慣がある利用者がちょっとしたはずみで首や頭が手すりの隙間に落ち込む危険があり、高齢者の中には首が細い人も多く、痛みや発作によってベッドの上で想定外の動きをすることがある為だそうだ。

 医事評論化の水野肇氏によると、「介護現場では、老人が1ミリもないような畳のヘリにつまづいて転倒するなど、普通の人が想像もできないような事故が起こる。今回の介護ベッドの問題でも、「6センチ以下」とされていた隙間に首を挟まれるとは誰も考えない。ベッドだけでなく、介護用具のすべてで安全性の総点検が必要ではないか」と述べている。

 まさに想定外の事故だけに、専門家は勿論、素人ながらこれからお世話になるかも知れない器具だけに十分な安全性を考慮して欲しいものだと取り上げた。

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興味深い大奥の記録が明らかに

200pxkazunomiya 皇女・和宮

 第14代将軍徳川家茂の正室和宮の日常生活、その前の第13代将軍家定の正室篤姫にまつわる大奥についての記録が津山藩(岡山県津山市)にあったことが分かった。

 そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじきこと」と厳しい法度が残されているとされている。東京大学史料編纂所の山本教授が確認したところによると、記録は津山藩江戸屋敷の奥女中が書いた「七宝御右筆間御日記」では第11代将軍家斉の子、斉民を藩主に迎えた1831年~69年頃までの記録が計1万ページを超えるほどあるそうだ。

 その中にあるいくつかの興味ある内容を挙げてみると、「宮様はナスが好きなので献上した」(1868年)という記録があるが、これまで知られていなかった和宮の個人的嗜好も記述されているとのことだ。また、将軍家の江戸城退去後の69年には「天璋院こと篤姫さまの自画の掛け物ができた」との記述もあり、73年に撮影された写真をもとにした肖像画とは別の肖像画があった可能性をうかがわせている。さらに篤姫付の女中について、これまでの文献では知られていなかった「八重浦」という名前も明らかになったり他の名前も確認されている。ほかにNHKの大河ドラマに出た御年寄・瀧山が1866年12月に「願いの通り、お暇を仰せ付けられた」という事実も分かったことや幕府の衰退とともに、年を追い女中が辞めていく様子もうかがえた。

 身分制度社会には貴人は自ら手紙を書くことはなかったが、山本教授は「篤姫付の女中の名前が分かったことで、手紙の差出人にある女中の名前から篤姫が出した手紙が特定できる大奥研究の貴重な史料になる」として、この日記の価値を高く評価している。

250pxhina_matsuri_display

 もう一つの話題として、第14代将軍家茂の正室であった和宮が愛した内裏雛などの人形や雛道具約100点が国立歴史民俗博物館で展示されている。場所は千葉県佐倉市であるが、「和宮ゆかりの雛かざり」展で開催中の幕府と朝廷の関係の幕末動乱期に、関係修復を図っての公武合体論により結婚の決まった和宮コレクションの公開である。

 3月3日の「ひな祭り」の節句が広まったのは、江戸時代に入ってからだと言われている。当初は男女一対の内裏雛を飾るだけだったものが次第に華やかなものに変わったと言われている。文献には、15対の雛人形を飾っていたという記録があるほど和宮は雛人形を愛好していたそうだ。展示は3月8日まで行われている。

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板碑の起源をどこに求めるか

250pxitabikamakurazaimokuza 板碑

 

歴史好きには意味がある板碑なるもの、主として中世に流行した石造の供養塔で板状の石に仏像や梵字、願文などを刻んで寺院の境内などに建立した塔婆の一種と言われる。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代にピークを迎えたと言われている。その特徴は、山形になった頂部の下に2条の切れ込みがあるものが典型的な板碑だとされる。その起源は、平安時代末期に出現したと見られる五輪塔の上部の形が簡略化して板碑の頂部となり、一番下の地輪が長くなって板碑の塔身部になったと考えられていた。

 先月、埼玉県の嵐山町で「板碑が語る中世」というシンポジウムが行われ、そこで新説が発表された。現在、一般に同一視されている「塔婆」と「卒都婆」は、天台宗の僧侶の澄憲は別物と考えていたとし、それは五輪塔や宝塔などの塔型と板碑のような非塔型の区別だったと解釈されることから、板碑の源流を辿るには五輪塔を切り離し非塔型の系譜をさかのぼるべきと北本市の教育委員主幹の磯野氏が指摘した。

最古の板碑をさかのぼると、木製の板碑が石川県珠洲市で出土して「餓鬼草紙」(12~13世紀)に描かれた木製板碑の実在がはじめて裏付けられた。このことが五輪塔の出現以前に板碑があった可能性を生んだ。磯野主幹が注目したのは、中国・唐の時代の幡と言われるもの、「極楽往生するための功徳として葬送に必要な仏具である。目的・形状・描かれたモチーフも板碑と酷似している。年代はかけ離れているが検討には値する」としている。

 日本は一般に「木の文化」だと言われているが、「石の文化」の時代もあった。縄文時代にはストーン・サークルや石棒などが造られたが弥生時代には下火になった。古墳時代には巨大な石室が築造されて復活したものの、奈良時代以降になると寺院の礎石に用いられる程度に落ち込んだ。中世になると、板碑をはじめ五輪塔や宝匡印塔など仏教世界の中で石造文化が花開いた。埼玉県の初期の板碑には、近在の古墳の石棺に使用されていた石材(青石)を再利用した事例があると報告された。青石を用いた古墳の分布と武蔵武士が建立した板碑の分布がほぼ一致していると発表された。

 中世はまさに石が再発見された時代で、石棺が板碑に転用されたのはじつに象徴的ともされ、磯野氏は「石の永続性が、イエ意識の高まりを見せていた武士団の象徴となったのではないか」と推測している。一方、板碑研究の第一人者千々石国学院教授は「末法思想などを背景とした密教系の浄土信仰の広がりが、様々な仏塔を生む要因となった。そういう中で武蔵の緑泥片岩のような美しい石の発見が全国各地であったのだ」と語っている。

 板碑の出現には、武士の台頭という政治的な背景と思想的な背景が複雑に絡み合って中世の時代を形作ってきたと思われる。今後の研究が中世を読み解く鍵になりそうだ。

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男色が潜む名作

 早稲田大学教授丹尾安典氏の新著「男色の景色」(新潮社)が取り上げられて、日本の男色文化についての論評が読売新聞に掲載されていたので取り上げて見た。

 氏の専門は、近代美術史だそうだが、男色については20年前に学内で「本朝男色美術考」を発表したのが始まりだそうだ。

 男色研究の先駆者は、戦時中に病没し、その後仕事の全容が公刊された岩田準一氏で丹尾氏も取り上げている。歴史学では近年、史実として男色を扱っているそうで、院政期の政治では後白河院のそれを抜きには語れない。戦国時代から江戸時代初期の武将にとってはありがちなことだった。松尾剛次著の「破戒と男色の仏教史」(平凡新書)は中世の戒律復興運動が力を持った背景として、男色が一般的だった仏教界の実情に注目している書である。こうした現象は、貴族や武士・僧侶など各階層が生んだ芸術・文化へ影響を与えたと言われている。

 丹尾さんの本は、史料を引用して縦横に論じている。例えば、梅や菊にまつわるイメージとして、いち早く春に咲く梅は「花の兄」、秋に咲き残る菊は「花の弟」と呼ばれ、しばしば男色関係の兄弟を意味したと言われる。取り上げられた作品の一つに尾形光琳がパトロンを描いた「中村内蔵助像」がある。この絵は、特別な感情をにじませる入念な肖像だが、画中の扇には梅が描かれている。無論、梅や菊がすべて男色を暗示する訳ではないが、そうした文脈があったことは無視できない。

 また、出光美術館所蔵の奥村政信「中村座歌舞伎芝居図屏風」には舞台の少年を見つめる僧侶が描かれ、その熱心さを連れの若衆が気にしている様子が描かれている。「絵の中の小さなドラマも、男色を念頭から消してしまっては目に映じてくることはない」と丹尾さんは話している。そのほか近代文学の中の井伏鱒二の「山椒魚」、川端康成の「伊豆の踊り子」などの名作にも、かすかに男色の気配が漂っているとしている。

 人によって好悪は分かれるだろうが、「性のテーマは誰もが抱えている問題であり、そういう人間的なところから蓮の花のように芸術的なものが花開くことがある」と丹尾教授は述べておられる。

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