何とも由々しきニュース

Thumbnail 介護用ベッド

 介護ベッドで事故死する人たちがいると言う。事故とは何ぞやと大変疑問に感じた。

介護ベッドの狭い手すりの隙間に首や頭を挟まれて死亡する事故だと言う。2007年12月から半年間にそうした事故と見られる死亡事故が8件も発生しているそうだ。

 介護ベッドとは、普通のベッドとは違い、介護しやすいように作られベッドで電動や手動で、高さを自由に調整したり、上半身や足だけを上げやすいように角度を変えたりする機能があるもので、介護保険制度の下、症状に応じてレンタル利用するのが保険給付の対象とされている。

 経済産業省認可のJIS規格製品であったのだが、こうした事故が多発しているために変更するそうだ。ベッドに設置されている手すりは、転落防止の柵としての役割を果たすのだが、この手すりに身体を預ける習慣がある利用者がちょっとしたはずみで首や頭が手すりの隙間に落ち込む危険があり、高齢者の中には首が細い人も多く、痛みや発作によってベッドの上で想定外の動きをすることがある為だそうだ。

 医事評論化の水野肇氏によると、「介護現場では、老人が1ミリもないような畳のヘリにつまづいて転倒するなど、普通の人が想像もできないような事故が起こる。今回の介護ベッドの問題でも、「6センチ以下」とされていた隙間に首を挟まれるとは誰も考えない。ベッドだけでなく、介護用具のすべてで安全性の総点検が必要ではないか」と述べている。

 まさに想定外の事故だけに、専門家は勿論、素人ながらこれからお世話になるかも知れない器具だけに十分な安全性を考慮して欲しいものだと取り上げた。

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興味深い大奥の記録が明らかに

200pxkazunomiya 皇女・和宮

 第14代将軍徳川家茂の正室和宮の日常生活、その前の第13代将軍家定の正室篤姫にまつわる大奥についての記録が津山藩(岡山県津山市)にあったことが分かった。

 そこには「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじきこと」と厳しい法度が残されているとされている。東京大学史料編纂所の山本教授が確認したところによると、記録は津山藩江戸屋敷の奥女中が書いた「七宝御右筆間御日記」では第11代将軍家斉の子、斉民を藩主に迎えた1831年~69年頃までの記録が計1万ページを超えるほどあるそうだ。

 その中にあるいくつかの興味ある内容を挙げてみると、「宮様はナスが好きなので献上した」(1868年)という記録があるが、これまで知られていなかった和宮の個人的嗜好も記述されているとのことだ。また、将軍家の江戸城退去後の69年には「天璋院こと篤姫さまの自画の掛け物ができた」との記述もあり、73年に撮影された写真をもとにした肖像画とは別の肖像画があった可能性をうかがわせている。さらに篤姫付の女中について、これまでの文献では知られていなかった「八重浦」という名前も明らかになったり他の名前も確認されている。ほかにNHKの大河ドラマに出た御年寄・瀧山が1866年12月に「願いの通り、お暇を仰せ付けられた」という事実も分かったことや幕府の衰退とともに、年を追い女中が辞めていく様子もうかがえた。

 身分制度社会には貴人は自ら手紙を書くことはなかったが、山本教授は「篤姫付の女中の名前が分かったことで、手紙の差出人にある女中の名前から篤姫が出した手紙が特定できる大奥研究の貴重な史料になる」として、この日記の価値を高く評価している。

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 もう一つの話題として、第14代将軍家茂の正室であった和宮が愛した内裏雛などの人形や雛道具約100点が国立歴史民俗博物館で展示されている。場所は千葉県佐倉市であるが、「和宮ゆかりの雛かざり」展で開催中の幕府と朝廷の関係の幕末動乱期に、関係修復を図っての公武合体論により結婚の決まった和宮コレクションの公開である。

 3月3日の「ひな祭り」の節句が広まったのは、江戸時代に入ってからだと言われている。当初は男女一対の内裏雛を飾るだけだったものが次第に華やかなものに変わったと言われている。文献には、15対の雛人形を飾っていたという記録があるほど和宮は雛人形を愛好していたそうだ。展示は3月8日まで行われている。

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板碑の起源をどこに求めるか

250pxitabikamakurazaimokuza 板碑

 

歴史好きには意味がある板碑なるもの、主として中世に流行した石造の供養塔で板状の石に仏像や梵字、願文などを刻んで寺院の境内などに建立した塔婆の一種と言われる。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代にピークを迎えたと言われている。その特徴は、山形になった頂部の下に2条の切れ込みがあるものが典型的な板碑だとされる。その起源は、平安時代末期に出現したと見られる五輪塔の上部の形が簡略化して板碑の頂部となり、一番下の地輪が長くなって板碑の塔身部になったと考えられていた。

 先月、埼玉県の嵐山町で「板碑が語る中世」というシンポジウムが行われ、そこで新説が発表された。現在、一般に同一視されている「塔婆」と「卒都婆」は、天台宗の僧侶の澄憲は別物と考えていたとし、それは五輪塔や宝塔などの塔型と板碑のような非塔型の区別だったと解釈されることから、板碑の源流を辿るには五輪塔を切り離し非塔型の系譜をさかのぼるべきと北本市の教育委員主幹の磯野氏が指摘した。

最古の板碑をさかのぼると、木製の板碑が石川県珠洲市で出土して「餓鬼草紙」(12~13世紀)に描かれた木製板碑の実在がはじめて裏付けられた。このことが五輪塔の出現以前に板碑があった可能性を生んだ。磯野主幹が注目したのは、中国・唐の時代の幡と言われるもの、「極楽往生するための功徳として葬送に必要な仏具である。目的・形状・描かれたモチーフも板碑と酷似している。年代はかけ離れているが検討には値する」としている。

 日本は一般に「木の文化」だと言われているが、「石の文化」の時代もあった。縄文時代にはストーン・サークルや石棒などが造られたが弥生時代には下火になった。古墳時代には巨大な石室が築造されて復活したものの、奈良時代以降になると寺院の礎石に用いられる程度に落ち込んだ。中世になると、板碑をはじめ五輪塔や宝匡印塔など仏教世界の中で石造文化が花開いた。埼玉県の初期の板碑には、近在の古墳の石棺に使用されていた石材(青石)を再利用した事例があると報告された。青石を用いた古墳の分布と武蔵武士が建立した板碑の分布がほぼ一致していると発表された。

 中世はまさに石が再発見された時代で、石棺が板碑に転用されたのはじつに象徴的ともされ、磯野氏は「石の永続性が、イエ意識の高まりを見せていた武士団の象徴となったのではないか」と推測している。一方、板碑研究の第一人者千々石国学院教授は「末法思想などを背景とした密教系の浄土信仰の広がりが、様々な仏塔を生む要因となった。そういう中で武蔵の緑泥片岩のような美しい石の発見が全国各地であったのだ」と語っている。

 板碑の出現には、武士の台頭という政治的な背景と思想的な背景が複雑に絡み合って中世の時代を形作ってきたと思われる。今後の研究が中世を読み解く鍵になりそうだ。

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男色が潜む名作

 早稲田大学教授丹尾安典氏の新著「男色の景色」(新潮社)が取り上げられて、日本の男色文化についての論評が読売新聞に掲載されていたので取り上げて見た。

 氏の専門は、近代美術史だそうだが、男色については20年前に学内で「本朝男色美術考」を発表したのが始まりだそうだ。

 男色研究の先駆者は、戦時中に病没し、その後仕事の全容が公刊された岩田準一氏で丹尾氏も取り上げている。歴史学では近年、史実として男色を扱っているそうで、院政期の政治では後白河院のそれを抜きには語れない。戦国時代から江戸時代初期の武将にとってはありがちなことだった。松尾剛次著の「破戒と男色の仏教史」(平凡新書)は中世の戒律復興運動が力を持った背景として、男色が一般的だった仏教界の実情に注目している書である。こうした現象は、貴族や武士・僧侶など各階層が生んだ芸術・文化へ影響を与えたと言われている。

 丹尾さんの本は、史料を引用して縦横に論じている。例えば、梅や菊にまつわるイメージとして、いち早く春に咲く梅は「花の兄」、秋に咲き残る菊は「花の弟」と呼ばれ、しばしば男色関係の兄弟を意味したと言われる。取り上げられた作品の一つに尾形光琳がパトロンを描いた「中村内蔵助像」がある。この絵は、特別な感情をにじませる入念な肖像だが、画中の扇には梅が描かれている。無論、梅や菊がすべて男色を暗示する訳ではないが、そうした文脈があったことは無視できない。

 また、出光美術館所蔵の奥村政信「中村座歌舞伎芝居図屏風」には舞台の少年を見つめる僧侶が描かれ、その熱心さを連れの若衆が気にしている様子が描かれている。「絵の中の小さなドラマも、男色を念頭から消してしまっては目に映じてくることはない」と丹尾さんは話している。そのほか近代文学の中の井伏鱒二の「山椒魚」、川端康成の「伊豆の踊り子」などの名作にも、かすかに男色の気配が漂っているとしている。

 人によって好悪は分かれるだろうが、「性のテーマは誰もが抱えている問題であり、そういう人間的なところから蓮の花のように芸術的なものが花開くことがある」と丹尾教授は述べておられる。

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いま江戸東京博物館では

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大名駕籠

  昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」は大変な人気で視聴率は好調のうちに終了した。

いま江戸東京博物館では、それを記念する意味での特別展が開催されている。1月25日までが「徳川将軍家ゆかりの女性」という企画展、もう一つが特別展の「珠玉の輿」で、2月1日までの開催になる。その中の目玉は、なんと言っても米スミソニアン協会所蔵の篤姫所用の女乗物と同博物館の本寿院所用の展示だ。篤姫と本寿院の二人の女性、NHK大河ドラマで一躍有名になった歴史上の人物だが、二人は13代将軍徳川家定の正室と実母の関係になり義理の母娘だ。

 江戸の町を行列が進む時、その中心になるのは大名が乗る駕籠や女乗物、輿などの乗物だ。こうした乗物が自らの権威を誇示する道具にもなっている。

 江戸東京博物館の学芸員斉藤慎一氏によると、篤姫と本寿院の乗る女乗物には随所に類似点があることでは、同じ時代に同じ工房で作られたと理解されるが比較して行くと微妙な仕様差が見られると解説している。金具や内装画に差異があり、篤姫乗物の方がグレードが高いそうだ。篤姫のものには徳川家の葵の紋や近衛家の牡丹紋が蒔絵にされているが、本寿院のそれには葵紋がないと言われている。こうした差は偶然ではなく、何らかの差異を表していると考えるべきだと言う。つまり将軍の正室と側室の差ではなかろうかと推察される。酷似しながらもこうした微妙な差がある女乗物が同時代にあったのは、江戸時代という背景にその社会的な背景が隠されていたのではと推測されている。

 江戸幕府は、徳川家康に始まったが家康と言えども乗物を自由に選べた訳ではなかった。乗物の利用が認められたのは、豊臣政権下に五大老の1人に選ばれたことで法令で利用が認められた。当時は騎馬が基本であった時代で、乗物の利用は特別なものだった。また、征夷大将軍になった時には朝廷から牛車の利用が認可された。こうした利用の認可は、政治的な地位に関係していて、その根拠となった法令が「武家諸法度」だったと言われている。実際には地位、立場によってもっと細部にわたって仕様に差が設けられていたとも言われている。

 女性の場合にも江戸時代の書籍にはランクが記載されているそうだ。<総黒漆塗に金蒔絵のあるものが最上のランク>とされ、将軍家や大国の大名家の夫人が使用したと記されているそうだ。小国の大名家や高禄の旗本家の場合は、蒔絵ではなくビロード貼りでこれまた所有者の地位が表現されていた。さらに上位に位置する女乗物もあることが分かり、その外装は黒塗りではなく、金銀などの粉が混ぜられた蒔絵の梨子地のものとされている。類例のものは現在では4挺しか知られていないそうだ。

 江戸時代には乗物は自由に選べるものではなく、極めて厳格な規定の下で実に細やかな差を意識して作られた社会的な背景を持ち、それは江戸時代という身分制度社会が生み出した産物でもあったと言われている。

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インテリジェンスの草分け「007」

190pxsean_connery_1980_crop 初代ジェームス・ボンド役のショーン・コネリー

 生誕100年の話題が続いているが、もう一つの話題としてスパイ小説007シリーズで知られる小説家、英国のイアン・フレミング氏(1908~64)も生誕100年を迎えている。

独協大学教授・国際政治学者の竹田いさみ氏によると、今でも多くのファンを魅了して止まず大半が映画化されているフレミングの作品の中で「ロシアより愛をこめて」は故ケネディ米大統領の愛読書に選ばれたことがそうだ。

 007シリーズの独特の作風は、作者であるフレミングの生い立ちに拠って作られたと言われている。祖父は米国の鉄道に投資して成功した投資家、父は保守党議員で裕福な家庭環境に育った。そのため青年時代から英国の上流階級に接点を持ち、名門のイートンスクールを経て陸軍士官学校へと進んだ。しかし、その後は入隊せず、スイスとドイツに遊学し、ロイター通信の記者としてモスクワ取材を通じてスターリン体制の恐怖政治を垣間見ることとなり、これが彼のロシア観となってあの作品にも表れた。

 第2次世界大戦中は英海軍情報部の将校に抜擢され、対独情報戦に参加したことがきっかけで作家としての道を歩み始めた。近く公開される「慰めの報酬」という最新作の映画では、カリブ海の島国ハイチや南米のボリビアが舞台で、水や天然資源を支配して世界市場を撹乱する”闇の組織”との戦いがテーマになっているが、彼自身大戦中にはカリブ海のジャマイカ島に魅せられて、戦後はそこに別荘を建てて執筆活動の拠点とした。

 1952年から64年まで年1作のペースで、シリーズを書き上げていったが作品を見るとフレミングの実人生の縮図でもある。その底流には、彼のインテリジェンス(情報収集・諜報)に対する深い思い入れが貫かれていて、インテリジェンスは戦争を回避させるだけでなく、戦争を短期に終わらせ極小化させる有力な手段であることが分かる。とくにM I 6に代表される英国インテリジェンスの歴史は、16世紀のエリザベス女王1世の時代に大国スペインの無敵艦隊を破った快挙にも現れている。当時、女王の側近だったウォルシンガムが、英国国内と欧州大陸に情報網を張り巡らせ、敵の動向を逐次追うことで開戦のタイミングを正確に読むことが出来たと言われている。それは女王の肖像画の中にも読み取れる身にまとったガウンに施された”目と耳の刺繍”に現れた女王のインテリジェンスへの並々ならぬ関心度が物語ってもいる。

 007の”00”とは何ぞや、単なる数字のゼロではないそうだ。

 これは元来、女王への極秘文書に実際に使われていた特殊な記号で、女王の両目、すなわちアイズを表すそうで、つまり、「女王陛下お一人がお読みください」という意味が込められているとの事である。映画にもあった「ユア・アイズ・オンリー」なる言葉は、英国で実際に使われてきた「極秘」を指定する文言である。

 インテリジェンス無くして国家の生存や戦略はありえない。フレミングの作品には、そんな彼の強いメッセージが込められているが、ひるがえって日本ではどうなのだろうか。平和な世界に埋没している戦後の日本人には、理解できない人たちばかりかも知れない。

 今年は英国の作家、イアン・フレミングの生誕100年を記念して、ロンドンの帝国戦争博物館では特別展が開かれているとのことである。

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生誕100年に見る人気作家の点と線

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太宰治(左)と北九州市立松本清張記念館

 過日、読売新聞に掲載されていた「太宰・清張をつなぐ点と線」という記事が目につき、興味を感じて書いてみた。

昭和も遠くなりの時代に入って来たが、その時代を代表する人気作家として太宰治と松本清張がいる。生まれは二人とも同年代だが、太宰の方はあの有名な入水心中事件で清張より44年前に亡くなっている。その二人が今年そろって生誕100周年を迎えるのだ。

二人の生い立ちも学歴も対照的で、太宰は大地主の家に生まれて東京帝国大学を除籍になり、清張は高等小学校を卒業してすぐ働き始めた。太宰の方は、代表作「人間失格」に記してあるように<自分には人間の生活というものが、見当つかないのです>と述べている。それに対して、清張は就職し始めには<生活のために、かねて夢と抱いていた文学を捨てた>と述べていた。しかし、後に朝日新聞西部本社の広告部に勤務してから、<小説も文学も私には一切無縁だった。会社で太宰治を語る者がいたが、私はこの情死で世間的に有名になった作家の作品を何一つ読んでいなかった。後になって太宰の小説で感心したのは「ヴィヨンの妻」と「津軽」であった>と書いているそうだ。

松本清張がデビューしたのは、太宰が死んでから2年後で懸賞に入選した「西郷札」という小説である。以後は国民作家としての道を歩み、「砂の器」「点と線」など全38点累計4337万部で絶大な人気を博した。それと同じく太宰も「人間失格」が新潮文庫で615万部、「斜陽」は356万部など全17点で累計2041万部の売れ行きだそうである。(昨年11月末現在)

1月11日から北九州市にある松本清張記念館では、「1909年生まれの作家たちー大岡昇平・中島敦・太宰治・埴谷雄高・松本清張」展が開催されている。人気作家の大集合展だけに多くの人の入場が期待されているそうだ。

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歌舞伎20選とはどんなものか

180pxdanjc5abrc58d_ichikawa_vii_as_ 歌舞伎・弁慶

 歌舞伎座の建て替えが決まり、現在の東京・歌舞伎座の「さようなら公演」が来年1月に行われる。それに際して、読売新聞社と松竹は「読者が選ぶ好きな歌舞伎20選」なるものを募集して、このほどその結果が出た。

 トップは過去2回の調査と同じ「勧進帳」で、その中で演じられる弁慶の豪快な役どころが人気の的になっている。2位は「義経千本桜」など以下人情あふれる世話物から華やかな舞踊や新作など多彩な作品が選ばれている。ちなみに前2回の調査とは、歌舞伎座開場100年を記念した1987年と松竹創業100年を前にした調査である。

 20選を順位順に上げると以下の通りになる。

①勧進帳・・・1852票 ②義経千本桜・・・931票 ③京鹿子娘道成寺・・・881票 ④仮名手本忠臣蔵・・・829票 ⑤白浪五人男・・・810票 ⑥助六・・・749票 ⑦桜姫東文章・・・545票 ⑧源氏物語・・・363票 ⑨連獅子・・・331票 ⑩恋飛脚大和往来・・・309票 ⑪菅原伝授手習鑑・・・276票 ⑫三人吉三・・・257票 ⑬阿古屋・・・256票 ⑭俊寛・・・226票 ⑮伽羅先代萩・・・224票 ⑯暫・・・195票 ⑰女殺油地獄・・・183票 ⑱里見八犬伝・・・181票 ⑲曽根崎心中・・・179票 ⑳元禄忠臣蔵・・・173票

 この中には、3作品の大阪を舞台にした上方作品が入っている。「恋飛脚大和往来」・「女殺油地獄」・「曽根崎心中」がそれだ。また、上位2位から6位までは過去2回の調査でも上位を占めている。

 演劇評論家の犬丸治氏は、「見た目や様式美より、ドラマとしての面白い作品に惹かれる傾向が強まっている」と話している。その一例は、「菅原伝授手習鑑」、「俊寛」「伽羅先代萩」などだ。

 応募者の年代別の割合は、60歳代・25.9% 50歳代が22.0% 70歳代15.2%, 30歳代は10.1%20歳代5.1%となっている。男女別では、女性が72.6% 男性は27.4%となっているが、前回に比べ男性の比率が若干ながら増えたそうだ。とくに女性に人気があるのは、「京鹿子娘道成寺」・「源氏物語」などだが、女性が9割近くを占めている。

 日本の伝統芸能の中でも、歌舞伎はその中心的存在であり一般大衆を魅了するもっとも人気のある芸能である。古来から日本人の気持ちを捉えて離さないことが分かった。

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オスとメスの出会いは万物共通

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 素数ゼミ

 どんな小さな虫であっても、大きな動物であっても子孫を残す行動というのは大変な問題であることが見えてくる。わが国でも、いま少子化問題で騒いでいるが、出会いがなければ事が始まらず、人間も動物も変わらないようだ。

 よくニュースになるセミの大量発生現象、同じ場所で同じ時期に発生するのもこの現象と言われる。素数という整数があるが、2・3・5・7・11など1と自分自身以外では割ることの出来ない2以上の整数を言うそうだ。その数字の17年、13年に一度だけ北米大陸で大発生する不思議なセミを「素数ゼミ」と言うそうだが、なんと100メートル四方に40万匹という信じられない密度で大量発生する。これも出会いによって決まる生態なのだそうだ。

セミは長い一生のほとんどを土の中で過ごすが、ほんの最後の何日かで子孫を残すために地上に出てくる。寒冷な厳しい環境の下では地中で過ごす期間も長く、運良く同じ時期に、同じ場所で地上に出てきてパートナーに出会ったセミだけが子孫を残すことが出来るのだ。これまでの地球の歴史上でも、そのほとんどを巨大な氷河で覆われていた氷河期が過ぎて、そこから逃れることの出来た特定の地域の少数のセミだけが生き延びたと言える。

250pxe382ade382a2e382b2e3838f_p キアゲハの場合は、せり科の植物を餌にして行動範囲も広く、卵を産み付ける場所や幼虫が生まれる場所もまちまちだけにパートナーに出会える確率も大変低い。そのため少しでも高い見晴らしのよい場所で、オスはメスを見つけるために集まってくる。それを見て、メスも移動して集まってくる。お互いが、高い場所、高い場所と追っかけっこするように移動して行く。この現象を「ヒル・トッピング(山頂集中行動)」現象というそうだ。

 渡り鳥のカモは、一般にオスの方がメスより派手で色鮮やかな外見をしているが、太平洋のハワイ諸島などに住み着いたカモは、オスもメスも区別が付きにくいくらい地味だそうである。これは立教大学の上田教授に言わせると「オスとメスが普段からお互いをじっくり観察できるため、メスは中身重視でオスを選ぶ」のだそうだ。ゴクラクチョウやキジ、クジャクなどは、オスが派手だがつがいにならず、メスが子育てをする一発勝負型であるためにオスが派手な外見と言われている。

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この本を読んでの感想を書いた

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「日本語が亡びるときー英語の世紀の中で」(筑摩書房)

 日本人の英語苦手症は、大変数多くいるし、勉強していながらもなかなか上達できない人も多い。つい最近も、ノーベル賞受賞者の一人、益川教授が授賞式で「I cannot speak English.」と正直な気持ちを堂々と表明された。

じつは、本当に英語に堪能な人は「日本語の機能と陰影をどう護るか」という問題に腐心しているのだ。21世紀はインドやシンガポールのように、自国語と英語が二重言語化していく地域がアジアでも増えて行く。一極集中化の中で、日本語が生き残る道はどこにあるのか。この本は、そのことを訴えている憂国の書だと評判になっている。

著者は、水村美苗(みなえ)さんと言う作家でバイリンガルの作家と言われている位英語が達者な人だそうだ。インターネットの普及とともに英語が世界を席巻しつつある今日は、「英語の覇権を憂う書」として上梓したのだと著者は語っている。

 著者は日本語について、「無限の造語力を持つ漢字を音訓自在に組み合わせて語彙を広げ、ひらがな、西洋語を表すカタカナ、ローマ字など多様な文字を縦にも横にも併記して、歴史も感情もすべてを含み込む。書き言葉としての日本語は、稀有なだけでなく、世界に誇れる機能的かつ陰影豊かな言葉です」と話す。グローバリズムとかやらが日本で広まるにつれ、無批判な安易な本しか読まない人々も増えて、日本語が「すでに自国の文字を持たない、現地語に墜ちた響きを感じる」とも述べている。

 日本が植民地化を免れ、漢字の素養を蓄えた日本語の実力が頂点に達したのは、二葉亭四迷の「浮雲、夏目漱石・森鴎外・谷崎潤一郎らが活躍した明治後半から昭和初期だったと限定、西欧の列強と互角の思考力を担う「国語」の建設を文学が果たしていたと役割を評価している。「福沢諭吉が1年間も枕を使って眠るのを忘れたほど、猛烈な勢いで西洋の知識を輸入し、急速に日本語は近代化した。ところが英知を受け取るほどに、西洋とわが国の隔たりに苛まれた」あの漱石は、神経衰弱にもなった。

 ところで著者の水村氏のプロフィールを詳しく調べると、1960年代に父の転勤に伴って12歳で東京からアメリカへ渡り、エール大学院で仏文学を修め、帰国後の90年、漱石の未完の遺作を歴史的仮名遣いで書いて、デビュー作の「続明暗」をまた2作目として、英文混合で「私小説from left to right」を書いている。この時には、「英語で翻訳されることを意識して小説を書いたりしたら、日本語の醍醐味は消えます」と語っている。

「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育てて、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策であり、勿論、小説家は密度の高い文体を全力で、さもなければ日本語はやがて亡び行く。私たちはその分かれ道に立っています。」と述べている。英語教育を小学校から進めよとしている文部科学省のお偉方に聞かせたい、読ませたい本と言える。

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